『火に行く彼女』
川端康成『火に行く彼女』より。
*
*
*
遠くに湖水が小さく光っている。
古庭の水の腐った泉水を月夜に見るような色である。
湖水の向岸の林が静かに燃え上っている。
火は見る見る拡がって行く。山火事らしい。
岸を玩具のように走る蒸気ぽんぷが鮮かに水面に映っている。
坂を黒くして人群が果しなく上って来る。
気がつくと、あたりの空気が静かに乾いたように明るい。
坂の下の下町一帯は火の海である。
―――彼女が一ぱいの人群をすいすいと分けて一人坂を下って行く。
坂を下って行くのは彼女唯一人である。
不思議に音のない世界である。
火の海に向って真直ぐに進む彼女を見て、私はたまらない気持になる。
その時、言葉ではなしに彼女の心持と、実にはっきり会話を交す。
「どうしてお前だけ坂を下りて行くのだ。火で死ぬためにか」
「死にたくはございません。
でも、西の方にはあなたのお家がございます。
ですから、私は東へ参ります」
焔(ほのお)で一ぱいの私の視野に黒い一点の彼女の姿を、
私の眼を刺す痛みのように感じて、私は目が覚めた。
目尻に涙が流れていた。
私の家のある方角に向って歩くのも厭だと彼女が言うのは、
もう私には分かっていた。
彼女がなんと考えようと、それはいい。
しかし私の方は、理性に鞭打って、
彼女の私に対する感情が冷えきったものと、
表面ではあきらめていたにしても、
彼女の感情の何処かに
私のための一滴(ひとしずく)があると
実際の彼女とは関係なく、
唯私自身勝手に思っていたかったのであった。
そう言う自分を手ひどく冷笑しながらも、
密かに生かして置きたかったのであった。
ところが、こんな夢を見るようでは、
彼女の好意が微塵(みじん)も私にないものと、
私自身の心の隅々まで信じきってしまっているのであろうか。
夢は私の感情である。
夢の中の彼女の感情は、私がこしらえた彼女の感情である。
私の感情である。
そして夢には感情の強がりや見栄がないのに。
そう思って、私は寂しかった。
*
*
*
「掌(たなごころ)の小説」という本に入っている短編の全文です。
学生時代は前半の夢の情景に心惹かれていましたが、
10年たった今は
目が覚めた後の「私」の気持ちに共感を覚えるようになりました。
現実に向き合う時の苦みが
これでも少しずつ分かってきたのでしょうか。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
読んでくれてありがとう。
もし良かったら、こちら↓
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遠くに湖水が小さく光っている。
古庭の水の腐った泉水を月夜に見るような色である。
湖水の向岸の林が静かに燃え上っている。
火は見る見る拡がって行く。山火事らしい。
岸を玩具のように走る蒸気ぽんぷが鮮かに水面に映っている。
坂を黒くして人群が果しなく上って来る。
気がつくと、あたりの空気が静かに乾いたように明るい。
坂の下の下町一帯は火の海である。
―――彼女が一ぱいの人群をすいすいと分けて一人坂を下って行く。
坂を下って行くのは彼女唯一人である。
不思議に音のない世界である。
火の海に向って真直ぐに進む彼女を見て、私はたまらない気持になる。
その時、言葉ではなしに彼女の心持と、実にはっきり会話を交す。
「どうしてお前だけ坂を下りて行くのだ。火で死ぬためにか」
「死にたくはございません。
でも、西の方にはあなたのお家がございます。
ですから、私は東へ参ります」
焔(ほのお)で一ぱいの私の視野に黒い一点の彼女の姿を、
私の眼を刺す痛みのように感じて、私は目が覚めた。
目尻に涙が流れていた。
私の家のある方角に向って歩くのも厭だと彼女が言うのは、
もう私には分かっていた。
彼女がなんと考えようと、それはいい。
しかし私の方は、理性に鞭打って、
彼女の私に対する感情が冷えきったものと、
表面ではあきらめていたにしても、
彼女の感情の何処かに
私のための一滴(ひとしずく)があると
実際の彼女とは関係なく、
唯私自身勝手に思っていたかったのであった。
そう言う自分を手ひどく冷笑しながらも、
密かに生かして置きたかったのであった。
ところが、こんな夢を見るようでは、
彼女の好意が微塵(みじん)も私にないものと、
私自身の心の隅々まで信じきってしまっているのであろうか。
夢は私の感情である。
夢の中の彼女の感情は、私がこしらえた彼女の感情である。
私の感情である。
そして夢には感情の強がりや見栄がないのに。
そう思って、私は寂しかった。
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「掌(たなごころ)の小説」という本に入っている短編の全文です。
学生時代は前半の夢の情景に心惹かれていましたが、
10年たった今は
目が覚めた後の「私」の気持ちに共感を覚えるようになりました。
現実に向き合う時の苦みが
これでも少しずつ分かってきたのでしょうか。
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