ニニの日記

白猫のニニ王子が、日々の暮らしを綴ってゆきます。

『火に行く彼女』

イメージ 1

川端康成『火に行く彼女』より。





遠くに湖水が小さく光っている。

古庭の水の腐った泉水を月夜に見るような色である。


湖水の向岸の林が静かに燃え上っている。

火は見る見る拡がって行く。山火事らしい。


岸を玩具のように走る蒸気ぽんぷが鮮かに水面に映っている。


坂を黒くして人群が果しなく上って来る。


気がつくと、あたりの空気が静かに乾いたように明るい。


坂の下の下町一帯は火の海である。


―――彼女が一ぱいの人群をすいすいと分けて一人坂を下って行く。

坂を下って行くのは彼女唯一人である。


不思議に音のない世界である。


火の海に向って真直ぐに進む彼女を見て、私はたまらない気持になる。


その時、言葉ではなしに彼女の心持と、実にはっきり会話を交す。


「どうしてお前だけ坂を下りて行くのだ。火で死ぬためにか」


「死にたくはございません。

でも、西の方にはあなたのお家がございます。

ですから、私は東へ参ります」


焔(ほのお)で一ぱいの私の視野に黒い一点の彼女の姿を、

私の眼を刺す痛みのように感じて、私は目が覚めた。


目尻に涙が流れていた。







私の家のある方角に向って歩くのも厭だと彼女が言うのは、

もう私には分かっていた。

彼女がなんと考えようと、それはいい。

しかし私の方は、理性に鞭打って、

彼女の私に対する感情が冷えきったものと、

表面ではあきらめていたにしても、

彼女の感情の何処かに

私のための一滴(ひとしずく)があると

実際の彼女とは関係なく、

唯私自身勝手に思っていたかったのであった。

そう言う自分を手ひどく冷笑しながらも、

密かに生かして置きたかったのであった。


ところが、こんな夢を見るようでは、

彼女の好意が微塵(みじん)も私にないものと、

私自身の心の隅々まで信じきってしまっているのであろうか。


夢は私の感情である。

夢の中の彼女の感情は、私がこしらえた彼女の感情である。

私の感情である。

そして夢には感情の強がりや見栄がないのに。

そう思って、私は寂しかった。









「掌(たなごころ)の小説」という本に入っている短編の全文です。



学生時代は前半の夢の情景に心惹かれていましたが、

10年たった今は

目が覚めた後の「私」の気持ちに共感を覚えるようになりました。



現実に向き合う時の苦みが

これでも少しずつ分かってきたのでしょうか。



~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

読んでくれてありがとう。
もし良かったら、こちら↓
http://www.yamaguchi-blog.com/wj.php?cd=006p
をぽちっとヾ(∂。∂)*押してね。山口ブログです。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~